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福地源一郎の新聞に対する理念=やまと新聞創刊の理念
「新聞の真の使命は、事実無差別に報道すれば能事足れりとするものではなく、報道する事実の是非善悪を、高い次元、高い道義をもって判断し、是、善なるものはこれを宣揚し、非、悪なるものはこれを剔抉糾弾して世論を喚起し、政治家、事業家、教育家その他の指導層を含む民衆を指導し、国家社会のおもむくべき道を明らかにするものであらねばならぬ」

終戦後自分たちの主張ばかりを強くして、その義務というものを忘れておる者が多い。
その非国民的な悲愛国的な我利我利の連中の意を迎える様にするのが今の多くの新聞雑誌の態度です。その大新聞に向かって、思う存分な批判を

「帝日の復刊」昭和33年7月19日(土曜日)帝都日日新聞 第4194号より

真に強い者に対して強く、弱い者に対して優しい新聞を創ってもらいたい。ただ、その間一刻も記事の正確を忘れないことを期待する
「義ヲ見テセザルハ勇ナキナリ」小泉信三 

昭和33年7月19日(土曜日)帝都日日新聞 第4194号より

新しい時代に新しい指導理念を生み出さなくてはならない。俗悪ジャーナリズムを徹底的に排撃し、新日本の道標となるにふさわしい日本の文化を創りあげることは今日的急務となってきた。
「帝都日日新聞」が「やまと新聞」と名称を変え、新日本を創りだす真正ジャーナリズムの一躍たろうとする真意もここにある。「やまと新聞」はもともと日出国の新聞としてその歴史は古く、日本民族の新しい精神、文化を創み、かつ結集するにもっともふさわしい新聞の使命を持っている。
「やまと新聞」は新しい日本の文化の先達として再発足する。

「曲がり角に立つ日本」昭和44年7月1日(火曜日)やまと新聞 第7538号 より

「帝都日日」を踏み越えたところに「やまと」は、民族の良心として国を愛する国民とともにあろうとする。

「筆剣」 昭和44年7月1日(火曜日)やまと新聞 第7538号より

やまと新聞創刊号

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明治19年10月7日 水曜日
(1面内容)

  • 官報
  • 論説「やまと新聞発行の開序(しんぶんはつかうのじょひらき)」
  • 雑報と連載小説
  • そして立派な挿絵が書かれています。

創刊号に寄ると当時の定価は一ヶ月前金25銭と記載がありました。
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帝都日日新聞

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昭和33年7月19日
(1面内容)

醜い同士打ち選挙の典型キシソウリダイジンノナニオイテ「ニセ電報で票集め」

”自由”論壇「政界人も財界人も共に忘れている根本問題」アテにならぬ学者と思想家と評論家と

岸首相は断固告訴せよ!

貧強新聞(三宅雪嶺)

”帝日”復刊に寄せて(小泉信三)「義ヲ見テセザルハ 勇ナキナリ」

汚職議員を出すな!

立ち上がれ原口神戸市長

”帝日”の復刊 読者の責任〜復刊の辞に代えて〜

(広告)サッポロビール・三越
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やまと新聞復刊号

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昭和44年7月1日
(1面内容)

ねぼけたか!文部省
「これが推薦映画か」
日共、日教組制作援助映画を文部省が推薦
左翼団体総動員で上映

イラストやまと戯評(たかだ・たかし)

デモ批判、配達しない
都内「朝日」の販売店へ
日共、党員送り込む?
左翼陣営の闘争方式

早くも内閣改造説

新しい歴史を創る・やまと新聞

曲がり角に立つ日本
「帝都日日」から「やまと新聞」へ
沖縄・安保、決戦の場に

筆剣
「帝都日日」を踏み越えたところに「やまと」は、民族の良心として國を愛する国民とともにあろうとする。

読み物:西郷隆盛

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三和銀行・東海銀行
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「やまと新聞」昭和44年7月1日号から7月6日号までの6回にわたり掲載されていたものです。(国立国会図書館保存)

1.jpgやまと新聞の足跡 ①
<日本主流新聞史通論>

【一世紀も前に実施】
『インボデンに媚態を呈す』

現在の新聞関係資料ないし文献は終戦後か、古くとも昭和十年以降に書かれた物が多く、明治?大正時代の実情を真実に伝えるものは頗る乏しい。それは朝・毎・読各紙関係者によってつくられた物であるから、全て朝・毎・読中心となっている。ちょうど日本の中世以降の史料が、徳川幕府の御用学者によってつくられたものばかり残されたので、徳川に都合の好いこと一辺倒となったことと同断である。本論は老骨の筆者が、戦前多年の新聞経験により、目のあたり見たこと及び、先人より直接伝えられた事実に基づき略記したものである。(大森鉱太郎)

<大新聞創世記>
日本終戦当初、ゼネラル・ヘッド・クォーター略してG・H・Qの新聞担当インボデン少佐が日本新聞界に君臨(当時の無気力な我が新聞界が彼をして君臨せしめた)し、"新聞は事実の報道を全使命としなければならない"と定義し、これをプレスコード第一条とした。我が新聞界はこれをさも民主主義下における新意義であるかの如く推載したが、新聞が事実を報道する事は極めて当然で、新聞のイロハ、中学生的な初歩的文句、それを新意義なぞと推し載かなくても、明治五年、本山彦一、条野伝平、池田伝助らが報道を主とした大衆新聞として「大阪毎日」「東京日日」を同十二年、村山竜平が上野理一津田貞等と「大阪毎日」、二十一年に「東京朝日」各新聞を創刊、毎日創刊の翌六年には新政府の初代駅逓頭(今日の郵政大臣)前島密が部下の太田金右衛門をしてローカルニュースを報道するため「郵便報知」を、またその翌七年には神奈川裁判所の通訳子案俊、本野盛厚、柴田昌吉等が「読売新聞」を、これまた大衆報道新聞と銘打って創刊するなど、インボデンの初歩的定義は、すでに一世紀も前に日本でスタートしていた。然し新聞の真の使命は、事実無差別に報道すれば能事足れりとするものではなく、報道する事実の是非善悪を、高い次元、高い道義をもって判断し、是、善なるものはこれを宣揚し、非、悪なるものはこれを剔抉糾弾して世論を喚起し、政治家、事業家、教育家その他の指導層を含む民衆を指導し、国家社会のおもむくべき道を明らかにするものであらねばならぬ。そこに新聞は〝無官の帝王″或は〝社会の木鐸″と言われる本質がある。

<報道だけに縛る>
インボデンは日本の新聞に占領政策の批判をしてもらいたくないから、報道だけに縛り付けて置こうという、アメリカないしマッカーサーの意を体しての事だったかもしれないが、元来がアメリカの一小地方都市で一万か二万の新聞業者だったインボデン自身は、このような高次元の新聞使命は自覚しなかったであろう。

<真使命が躍動す>
お国のニューヨークタイムスワシントンポストなどには真の使命が見られるし〝大英帝国の宰相になるか、ロンドンタイムスの主筆になるか″との喝破を生んだロンドンタイムス、第二次世界大戦後の戦争裁判に対し〝誰か神の如き権限をもって裁き得るものありや″と連合軍の独善を叱咤したマンチェスターガーディアンなど、ここに新聞の真使命がある。

yamato2.jpgやまと新聞の足跡【2】
【明治十九年秋に創刊】『忽ち発行部数第一位に』

<日本主流新聞史通論>
明治初期の日本は新旧道義入り乱れ、新時代への思想混迷し、指導方針を渇仰していたので、これに応えるために、まず明治十五年福沢諭吉が「時事新報」を創刊し、慶応義塾的指導を以ってした。報道主義だった「東京日日」は明治十七年福地源一郎(桜痴と号す)を社長に迎え、その斬新卓抜な論説解説をもって一時他紙を圧倒したが、やはり毎日の生地は争えず、官報的報道尊重に傾いたので、二年後福地はたもとを分かち、条野採菊と共に明治十九年秋「やまと新聞」を創刊した(初期は〝日出国〝と書いて〝やまと〝と読ませた)。

<福地源一郎がつくる>
福地が「やまと新聞」をかざして世にまみえるや、政界、財界初め各界の人気翕然として集り、忽ち発行部数第一位。福地は天保十二年長崎の医家に生まれ、十五歳からオランダ大通辞名村八右衛門について蘭学を修め、十九歳安政六年幕府外国方の要職に就き、文久三年と慶応二年の二回に亘り渡欧、英仏の金融経済を特に研鑚、渋沢栄一に師事し、明治三年その推薦で伊藤博文と渡米、貨幣銀行制度を専攻、国立銀行設立の基礎を堤供し、伊藤を通じ木戸孝允、井上馨等、新政府の顕官達と親交を結び、同十一年商法会議所副会長、十七年、前記東京日日社長となって文名を甦せた。

<立憲帝政党を結成>
この間、彰義隊上野戦争を批判して筆禍(ひっか)投獄、立憲帝政党を結成し、政治運動で入獄したこともあった。こういう経歴を持つ人物であったから「やまと新聞」紙上に発揮した学識、識見、才能そして野性は抜群ピカ一、他紙人の及ぶところでなかったし、その「やまと新聞」が他紙を制圧したのは当然であった。これに刺激されて徳富蘇峰が明治二十年に「国民新聞」を興し、藩閥政治打倒を旗印に、黒岩周六(涙香)が二十五年「よろず重宝」萬朝報を創刊して有名人のスキャンダルや犯罪事件や猟奇的翻訳小説などを特色に、二十六年秋山定輔が「二六新報」を創刊して国事に対する抱負を実施することを標榜し「やまと」の後を追ったが、到底敵すべくもなかった。

3.jpgやまと新聞の足跡 ③ 

≪決定的変革期≫
【戦況ニュースに努む】『やまと優位』動かず

<次々に大芸術家を育成>
こうして各紙は明治二十七年―八年日清戦争に直面したが、戦争となると民衆は何よりも戦況を知りたがり、号外のベルの音は民衆の血を沸かせ、当然に報道主義の「朝日」「毎日」「報知」等の発行部数は俄かに増加した。けれども勿論「やまと」その他も戦況ニュースにも努めたので、やまと優位は動かなかった。明治三十三年、時の衆議院議員松下軍治が経営の衝に立ち、福地と力を合わせ、文化開発の新境地をも開拓、この頃の福地は政治、経済のみならず、文学、芸術にも造詣を深くしていたので、両々相まって文学、演劇、その他の芸道絵画を伸展させたから、当時の文学者、画家、俳優、芸人達は「やまと」によって育成され、またそれを支持し、これが民衆を惹きつけた。

<大芸術家が支持>
中でも明治の文豪と言われた柳川春葉、小栗風葉、尾崎紅葉、村上浪六、のちには永井荷風、川口松太郎、画家では鈴木清方、横山大観等は最も熱心な支持者であった。かくして「やまと」新聞は中央紙として首位、全国を通じて一流紙として、明治、大正にかけ盛名をほしいままにし、日本新聞史上の一大光彩と謳われた。松下は山縣有朋に厚い知遇を受けていたし、後には宮廷の権力者田中光顕と深く交っていたので、明治三十八年福地の死後も、その牙城を揺がさず、というのも眼の寄るところへタマが寄るというように、記者、社員に優秀な者が集まっていたからでもあったが、その中から政界、文壇その他各界に打って出たものも少なからずあった。

<植原悦二朗も出る>
政界に出た者の中には、大正、昭和前期にかけての有名政治家中その経歴に「やまと新聞記者」だった例も多く、植原悦二朗ら大臣クラスの政治家も十指に余るほどであったし、御手洗辰雄、川口松太郎当もそれにつながる人材であった。

4.jpgやまと新聞の足跡 ④ 

【本格的活動を展開】『満州事変が勃発』激動期に直面す
当時新聞の名声は、人気と権威にあり、発行部数にはあまりこだわらなかったので、その統計記録など詳細なものは残っていないが、明治の末期四十四年頃の記録によると、その時点現在で「大阪朝日三十五万(東京を含む)、「大阪毎日」三十二万、「やまと」二十万、「報知」二十万、「国民」十八万、「萬朝」十五万、「東日」五万、「時事」四万という数字が残っている。当時は日本全人口も今日の半分、購読人数も少なかったので、紙幣価値の倍率ほどではないが、当時の二十万部、三十万部は、今日の二百万、三百万部以上に匹敵するバリューであった。なお「都新聞」は明治三十五年の創刊で、「やまと新聞」の盛名にあやかるべく、その特徴を模倣して、後発ながら比較的よく伸び、堅実な地歩を築いていた。


<関東大震災襲う>
我が国新聞の発展経過は、いくだんかい、数●せい、そう、(割)期を設定する事が出来るが、大東亜戦争期を除いて、最も大きな変革期は、大正十二年の関東大震災であった。「やまと」「読売」「国民」「時事」「蔓朝」「二六」「報知」等は勿論東京が本拠であり、被災の中心地に存在していたから本社屋、印刷設備は殆ど灰燼に帰し、それでも焦土の中から起ち上がり、焼け残った場末や郊外の印刷屋を探し求め、ニュースに餓えた人々に光明を与えようと必死だった各社に比べ、同じ東京本拠でも「報知」だけは、焼けた社屋の地下室に予備の活字や機械を持っていたので火が収まるや直ちに新聞活動を再開したが、それよりも決定的に有利だったのは、大阪を本拠とした「東京日日」「東京朝日」だったことはいうまでもなく、両紙は大阪から資金、設備機械、人間等、万般の供給を得て、東京各誌が復旧に喘いでいる間に、活動を欲しいままにし、各紙の地盤を濡れ手で栗のつかみ取り、東京各誌も死闘を続け失地回復に懸命だったが、立ち遅れの差をいかんともする能わず「朝日」、「毎日」の両頭を許さざるをえなかった。とはいえ、それは発行部数においてのこと、新聞の本領、権威においてはおのずから別であった。


<読売の派手な紙面>
然し同じ報道の「読売」はそれから間もなく正力松太郎の経営となってから、大阪系両紙の追い上げにかかり、正力が永く警視庁官房主事だったことを活用し、工業倶楽部会員の関東財界人等に資金援助の匿名組合をつくらせ、関東財界人はまた「大阪の新聞に負けるな」と積極的な援助を敢行したので「読売」は米ハースト系の編集方法を取り入れ、特だねスクープシステムで、大衆好みの派手な紙面と、今日の公安委が目をむくような景品つき読者獲得戦術で人気をあげ、発行部数を増大、朝、毎と肩を並べ、朝、毎、読と並称されるに至った。


<依然、特徴生かす>
さて「報知」「やまと」「国民」「時事」「都」等は発行部数こそ三紙にゆずったが、依然特徴を生かし、中央紙としての面目を維持しつつ昭和年代に入り、昭和二年、同四年の金融パニックを経験して年を重ねるうち、図らずも満州事変勃発からの激動期に直面した頃から、「やまと新聞」は一段と他紙の目を見はらせるよう本格的な活動を展開した。

5.jpg「やまと新聞」の足跡⑤
日本主流新聞史通論

戦時体制確立に寄与松下から岩田にバトンタッチ

ソ連季刊誌プラウダ 五大紙の一つにあげる

非常時激動期
金融パニック後「やまと新聞」の経営者松下軍治が死亡、その直後、それまでの銀座三十間堀(銀座松屋デパート横、今の王子製紙本社所在地)から、芝田村町(忠臣蔵の浅野内匠頭長短が切腹した田村屋敷跡付近)に本社屋を移転していくばくもなく、共産党フラクがもぐり込みトラブルを越し、この鎮圧解決を頼まれた大化会長岩田富美夫が、衆議の要請により、この経営に当たるようになってから「やまと新聞」は、創刊当時の福地桜痴時代の国家主義よりも、マルクス学説を消化制圧し、行動性をもった国家主義による指導性を発揚した。
大化会を組織す
岩田はかつて革命直後のソ連に潜入、この潜入は当時の新聞界で先陣を競い「朝日」の布施「毎日」の下平の争いが興味の的だったが、岩田の潜入はそれよりも早く、前後して潜入した大庭柯公が死骸となって日本に引渡されインテリ青年の間に興奮を与えたが岩田もソ連軍に捕えられ、チタの牢獄に一年余すごし、銃殺前夜四百四州の歌をうたい、銃殺寸前、拳法で十何枚重ねた煉瓦を割り、ソ連人の賞賛をあび、ゆるされて帰国し、憲法博士の上杉慎吉、マルクス資本論の高畠素之と共に「大化の改新」を目的とした大化会を組織、各一流に秀でる士を集め、行動を本領としただけに、その行動力は他に並ぶものなく、黒竜会、玄洋社すら一目も二目も置いた。
指導性実に大
国会改造法案の北一輝とも同志的に親しく、二・二六事件では岩田の庇護を受けた事は後の話。こういう岩田社長の思想と知性が「やまと新聞」に反映されたのは当然だったし、記者も高畠門下の逸足達が中心だったので、折からの満州事変につづく五・一五事件、中華事変、大東亜戦争への準戦時体制、戦時体制の確立と遂行に寄与した「やまと新聞」の指導力は極めて大きかった。このような新聞の存在は外国とくにソ連の感心を惹き、昭和十年頃のソ連共産党機関紙プラウダは ”日本の五大新聞” として「やまと、朝日、毎日、読売、報知」を挙げていた

6.jpg「やまと新聞」の足跡⑥


日本主流新聞史通論

昭和20年でピリオド明治、大正、昭和の三代を風靡


大東亜戦争が始まってから、政府の言論統制、新聞統制が強行され、「朝日」は東西一本、「毎日」は「東日」、「読売」は「報知」を吸収せしめられ、「国民」は「都」と合弁して「東京新聞」。「中外」は「日刊工業」その他数紙と合弁し「日経」、「時事」は「産経」と合弁して「産経時事」というように、二紙、三紙または数紙の合弁合同を余議なくされ、「やまと新聞」にも「萬朝」、「二六」を合弁してほしいと政府の要請が執拗に繰りかえされたが岩田は「新聞は新聞紙法に基づいてのみ行動するのみならず、新聞は政府を指導するもので政府に指導されるものではない」とこれを拒否「もし政府が権力で強行するならば、命令者を実力で処断する」と当局者を叱咤したもので、政府もどうすることもできず、ついに「やまと」だけは合弁せず、全くの単独存続となったのを見て各紙は驚倒した。


勝つための提案を
昭和十八年夏、惜しくも岩田急逝、その遺言によって社長に児玉誉士夫、副社長に吉田彦太郎(のち裕彦と改む)が推され、岩田の遺志を継いた。この頃政府は情報局を設け、新聞管轄を内務省から移管、情報局は新聞を報道新聞、思想新聞、業界新聞の三種に分類し「朝日」「毎日」「読売」三紙を報道新聞の代表に「やまと新聞」を思想新聞の代表に「日本経済」を業界新聞代表と規定し、協力を求めた。だが「やまと新聞」は総力戦体制、経済統制、徴用令等を中心とする戦争政策をことごとに批判、これらの体制は戦争に勝つためのものではなく、敗けるための体制であり、政策であると喝破、勝つためにかくの如くすべきだと提案提言し続けた。言論取締りの政府当局者(特高)も憲兵隊当事者も、これに耳を傾け、建設的言論だと敬服したのはあながち言論弾圧ではなかった。戦況日に日に悪化しサイパン玉砕となるや「やまと新聞」は他の右翼新聞とともにサイパン復仇国民運動に進出。日比谷原頭に国民大会を展開したが、この国民運動が東条内閣の命取りとなり、間もなく東条は退陣、後継内閣は戦争終結に向った。「やまと新聞」は二十年五月二十五日の大空襲のため新聞設備全部を灰燼に帰し、日刊新聞としてのピリオドを打った。(完)

やまと新聞復刊20周年式典の写真

(本社書庫にアルバムとして保存されていたものを複写したものです)

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やまと新聞「返せ北方領土号」

やまと新聞社は '80鈴鹿JAFグランプリレース全日本選手権(11月1日~3日、鈴鹿サーキット)の出走車に”返せ!北方領土"のスローガンを掲げた。この車は実際にサーキットを走り、世界中のマスコミがこのことを報じました。テレビ中継の入るグランプリレースでこの車が走っている姿を見てみたかったと思います。