史上最強の戦艦大和出撃に込められたメッセージ


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「ねずきちのひとりごと」(日心会 会長:小名木善行)より「ねずきちのひとりごと」(日心会 会長:小名木善行)より「ねずきちのひとりごと」(日心会 会長:小名木善行)より「ねずきちのひとりごと」(日心会 会長:小名木善行)より


大和の出撃には、後世に残そうとするものすごく大きなメッセージが込められていたのではないか、ということを書いておこうと思います。
よく、古代の遺跡などに隠された「暗号」みたいなヤツです。

考えてみれば、ねず一等兵が、銃剣振りかざして敵陣に単身で突きかかって撃たれて死ぬ、というのと、戦艦大和という世界最大のバトルシップが片道切符で突撃するのとでは、そこに込められたメッセージ性は、天地ほどの開きがあります。
しかも艦長は航空機による戦艦攻撃のプロなのです。

その意味を、考えないプロはいない、と思うのです。

一時的には、もちろん勝った勝ったと大喜びでしょう。
世界最大級の戦艦を沈めたとなれば、そりゃ嬉しいことでしょう。
けれど、倒した者の熱に浮かされたような狂喜が過ぎ去り、
破れた者の悲しみにも、ある一定の時が経ち、
両当事者が、互いに事実を冷静にみたり考えたりできるようになったとき、
あるいはその当時においても物事を冷静にみれる人にとって、
大和出撃の意味や意図を必ず考える人が出て来る。

大和の出撃は、そんな日のためにあったのではないか。
そんなふうに思うのです。

よく「戦艦大和は、航空機によって沈められた。時代は航空機主体の時代に変わっていたのに、日本は空母を作らず大艦巨砲主義で、ために巨大戦艦である大和を作り、結局、米航空隊によって大和は沈められた」などという人がいます。

実はかくいう私自身が、学生時代、学校の先生から、そう教わりました。
そしてこのお話には、だから「要するに大本営がアホだったのだ」というオチがつきます。

けれどそうなんでしょうか。
そんなに簡単なことなのでしょうか。

「時代が変わっていたのだ」といいますが、そもそも世界で最初に航空機で戦艦を沈めたのは、日本なのです。
真珠湾のことを言っているのではありません。マレー沖海戦です。
しかも当時の士官学校卒のひとたちの優秀さといったら、現代社会では比類できるひとがいないくらいです。


マレー沖海戦は、大東亜戦争開戦の2日後である昭和16(1941)年12月10日、マレー半島東方沖で、日本海軍の航空部隊(一式陸攻、九六式陸攻)と英国東洋艦隊との間で行われた戦闘です。

この戦闘で、日本軍は航空兵力をもって、英国海軍が東南アジアの制海権確保の為に派遣した戦艦2隻を撃沈しました。

飛行機で戦艦を沈めた先例としては、他にタラント空襲、真珠湾空襲などがあるのだけれど、それらはいずれも「停泊中の艦船を飛行機で沈めた」戦いです。
いってみれば、スイッチを切った状態の戦艦を航空機で叩いたわけで、スイッチが入った状態、つまり作戦行動中の戦艦を航空機で沈めたのは、これが世界初のできごとです。
それまでの世界の常識は「不可能」というものだったのです。

ちなみに、現代までの世界の戦史において、航空部隊が作戦行動中の戦艦を沈めた事例は、このマレー沖海戦と、終戦間際に圧倒的な航空機をもって沈められた戦艦大和(昭和20年4月7日)、同様に大多数の航空機をもって沈められた武蔵(昭和19年10月24日)の3例しかありません。

言い換えれば、戦艦(バトル・シップ)というものは、それだけ強力かつ圧倒的な存在なのです。

まして、マレー沖海戦が、世界で最初に戦艦を航空機で叩くという作戦だったということは、前例のない不可能への挑戦だったということであり、何事も、はじめてのことというのは、たいへんな緊張と決断力をようすることということを考えあわせれば、日本が、どれだけ凄かったかがわかろうというものです。

そもそも、マレー沖海戦は、日本がシンガポール上陸作戦を実施する上での海上補給路を確保するために、どうしても勝たなければならない戦闘でした。
勝って制海権を確保しなければ、マレー半島に進出した日本陸軍への補給ができず、日本は、何万という将兵を孤立させてしまうのです。
だから、なにがなんでも勝たなければならない。

一方、英国軍にしてみれば、日本を追いつめ、開戦に踏み切らせたわけですから、すでに何ヶ月も前から日本がやってくることを見越して、準備万端整えて、日本軍を待ち受けています。
マレーの海域で、英国海軍は、100%確実に勝利できる体制をひいていたのです。

開戦の6日前の12月2日に、英国の誇る最新鋭の巨大不沈戦艦である「プリンス・オブ・ウェールズ」、巡洋戦艦レパルス、その他駆逐艦4隻からなるG艦隊をシンガポールのセレター軍港に入港しました。

旗艦であるプリンス・オブ・ウェールズは、14インチ(35.56cm)砲を10門装備した巨大戦艦です。
搭載する対空砲はポムポム砲と呼ばれ、1分間に6000発もの弾丸を発射するというすさまじいものです。

プリンス・オブ・ウェールズのこの対空装備は、英国が2年前のヨーロッパ戦線で、ドイツ・イタリアの航空機に空襲された際の経験から装備されたもので、いかなる航空機であれ、すべて撃ち落とすことができるだけの訓練も十分に積まれていたのです。

そしてこの大英帝国誇る巨大不沈戦艦は、当時の国王ジョージ6世の兄王である、エドワード8世の即位前の王太子プリンス・オブ・ウェールズの名前を冠していたのです。
いかに英国がこの戦艦に自信をみなぎらせていたかがわかります。

英国艦隊のもうひとつの戦艦レパルスも、建造年月はウエールズより古いものの、装備はウエールズと同じです。
それまで航空機による爆撃を完全に撃破してきている経験豊富な戦艦です。

そして英国東洋艦隊司令長官は、実戦経験の豊富な英国の誇る最強の士官、トーマス・フィリップス海軍大将です。
英国は、日本のマレー上陸部隊の輸送船団を攻撃するために「Z部隊」を編成し、12月8日17時過ぎに、全艦シンガポールを出撃しました。
まさに最強の布陣です。

これに対し、日本が対抗して派遣できたのは、金剛と榛名の二隻です。
両艦とも近代化の改装こそ受けていたものの、艦齢は27年。
兵装・装甲の厚さも巡洋艦程度の実力しかありません。

これはどういうことかというと、陸上にたとえれば、爆走する大型ダンプの集団に、たった二台の原チャリで棍棒持って挑むようなものなのです。
普通に考えたら、無茶としかいいようがないのだけれど、日本海軍というのは、そういう戦いでもかつての日清、日露で勝利したという実績を持つ軍隊です。
決して侮れない。
だからこそ、英艦隊は必勝の布陣を敷いたのです。

一方日本は、英艦隊に敗れれば、シンガポール攻略を図る日本陸軍への支援を絶たれ、下手をすれば全滅の憂き目を持ちます。
マレー沖海戦は、それだけ重要な海戦なのです。
にもかかわらず、さける艦船は、金剛と榛名しかない。

しかも事前の情報によって、日本は、英艦隊が、世界最強戦艦のウエールズまで投入していることを掌握しています。
それでも勝たなきゃならない。
そういう状況にあったのです。

英国艦隊出撃す。
この情報をもとに、日本はサイゴン(いまのホーチミン)にある航空基地から、航空機(九六式陸攻59機、一式陸攻26機、計85機)を出撃させます。

後の坊ノ岬海戦(大和)、レイテ沖海戦(武蔵)のときのような何百という航空機部隊ではありません。
数の上でもごく少数です。
しかも航空期部隊は、それぞれに散開し、全機が殺到できるわけでもない。

そうしてはじまったのが、マレー沖海戦です。
猛烈な英国艦隊の対空砲火の中、日本の航空隊は、果敢に英艦隊に挑みました。
ウエールズを葬った日本の航空隊は、前田孝成大佐率いる元山海軍航空隊所属の第一中隊(石原薫大尉)9機と第二中隊(高井貞夫大尉)の6機、あわせてたったの15機です。
ボムボム砲の猛烈な対空砲火の中、その戦いがいかに激しいものだったかは、想像に難くない。

この戦いで、ウエールズ撃沈の報告を聞いた英国首相チャーチルは、「あの艦が!」と絶句したそうです。
後にチャーチルは「第二次世界大戦回顧録」で次のように述べています。
「第二次世界大戦における戦い全体のなかで、その報告以外に、私に直接的な衝撃を与えた報告はなかった」
最強戦艦ウェールズと、レパルスの沈没は、それだけ衝撃的な、「ありえない」出来事だったのです。

マレー沖海戦では、まず戦艦レパルスが沈み、次いで戦艦ウエールズが被弾し、沈没やむなしとなりました。
このときウエールズの艦長のトーマス・フィリップス司令長官は、日本の航空隊に向け、乗員を退官させるので、30分時間をほしい、と打電します。

ウエールズの乗員たちは、巡視船エクスプレスに乗り移り、エレクトラとヴァンパイアが沈没したレパルスの乗組員を捜索し、エレクトラが571名、ヴァンパイアがレパルスの艦長と従軍記者を含む225名を救助、乗船させています。

その間、日本の襲撃部隊は、空で待機しました。
英国軍の救助活動の間、いっさいの攻撃行動をせず、空で待機したのです。
これまた、世界の戦史に残る出来事です。

当時の飛行機は、いまの時代にあるようなハイブリットでも省エネでもありません。
燃費がよくないのです。
30分の上空待機というのは、帰還するのに必要なギリギリの燃料しか残らないということです。
もしその間に英国の航空隊が急襲してきたら、日本の航空隊は帰還するための燃料を使い果たし、全機、墜落のリスクを負っています。
それでも日本の攻撃隊長は、戦闘を休止し空で待機を指示しました。

ウエールズの乗員が全員退艦しました。
そのウエールズのデッキには、ひとり、トーマス司令長官が残りました。
船と命をともにするためです。

このとき日本の航空隊は、全機整列し、一機ずつデッキ前を通過して、トーマス長官に最敬礼を送ったと伝えられています。
トーマス長官は、その間、ブリッジから挙手敬礼をもって答えた。
そして日本の航空機との挨拶の交換後、トーマス司令はデッキに体を縛りつけ、艦とともに沈んでいます。

ちなみに、マレー沖海戦におけるプリンスオブウェールズの戦死者は、艦が轟沈していながら、総員の20%です。
戦闘中の死亡者以外、全員が助かっています。

そしてさらにマレー沖海戦の翌日には、日本軍機が、再度戦闘海域に飛来し、機上から沈没現場の海面に花束を投下して英海軍将兵の敢闘に対する敬意と、鎮魂を行っています。


では、この戦いの三年半後に行われた坊ノ岬沖海戦はどうだったでしょうか。

坊ノ岬沖海戦では、戦艦大和が沈み、乗員3,332名のうち、90%以上にあたる3,063名が死亡しています。
なぜそんなに多くの将兵が死んでしまったのでしょうか。

理由は簡単です。
米軍が、残存艦隊に対して、日没近くまで攻撃をかけ、さらに大和が沈没後、海上に避難した大和の乗組員たちに対して航空機から機銃掃射を浴びせて殺戮を行ったためです。
海上に救命艇で逃れた兵士というのは、武装がありません。
つまり、非武装の避難兵に対して、暴力をふるったわけです。
これは明らかな国際法違反行為です。

ちなみに、本来、世界海軍というのは、ごく一部の極悪非道な海軍を除いては、万国共通の「海軍精神」を共有しています。
「海の男」の誇りと矜持です。
艦隊の力を駆使して戦う。
けれど戦い済んだら、兵士たちには罪はない。
たがいに仲良く、裸になって酒を酌み交わす。
それが世界の海軍将兵です。

普通ならそうなのです。
ところが、日米戦争の後期には、まるで様子が違ってしまった。

そもそも日本は、明治の開闢以降、世界のどこの国の民族よりも、勇敢で高潔で誰からも好かれる民族となろうと努力してきました。
その精神は国民のひとりひとりにまで深く浸透しています。
ですから日本軍は、支那の戦線においても、米国その他の国々との戦闘においても、ハーグ陸戦条約を守り、無法な振る舞いは厳に慎んできました。

あのB29でさえ、日本本土を空襲するに際して、墜落したら日本の捕虜になれ、日本人は乱暴な真似はしないから、と訓示がされています。
(米軍兵士で処刑された者もいましたが、これは戦うことのできない庶民に対する国際法で禁止された無差別殺戮を行ったからであり、むしろ処刑が当然の世界の常識です)
ところが、大東亜戦争の後期になると、サイパン戦、沖縄戦等において、米軍は度重なる日本人への蛮行を働いています。
なぜでしょうか。

もともと白人社会において、有色人種は「猿」であるとみなされていたのです。
日本人も、もちろん有色人種ですから、「猿」です。

けれど日本は、白人以上に努力し、勇敢で高潔な民族になろうと努力してきました。
だからこそ、人種差別、すなわち白人以外は人間でなく「猿」とみなされた世界にあって、日本人だけが「例外的に」人として処遇を受けるようになっていたのです。

ところが日米が戦争となり、米国政府が「ジャップを倒せ!」という世論操作をしなければならなくなったとき、「実は日本人は、世界に名だたる残虐な民族なのだ」と宣伝しまくった者があらわれました。

こうした意見は、日本との戦いに「勝たなければならない」そのために全米から「兵を集めなければならない」、しかも、戦争が長引き、戦費の調達に苦心していた大東亜戦争後期の米国(財政はほとんど破産状態)にとって、こうした「日本人悪玉説」は、たいへん便利なものとなります。

実は、米国にいてこれをやった東洋人が、韓国人の李承晩です。
李承晩は、米国の新聞に李氏朝鮮こそが東洋の理想国家であったと書き連ね、日本人はその理想国家を破壊し、占領し、文化を破壊した極悪非道の悪の化身、悪魔の使いだとする、おもしろおかしい投稿記事をさかんに書き送ったのです。

戦時下にあって、こうした日本人悪玉論は、対日感情を貶め、戦意を煽るにはちょうど良い、「使える」ものです。
しかも、もともと「人種差別」の下地があるところに加えて、戦時中なのですから、そうした悪玉論はたいへんに高い伝播力を持ちます。
こうして全米の新聞によって日本人悪玉論の世論が形成され、なにも知らない若者の米兵たちが、日本人=非道な悪猿ジャップと考えるようになっていきました。
まさにメディアの恐ろしさです。

異論もあろうかと思いますが、私は、大和の乗組員が落さなくても良い命を落とした、その背景には(大和だけでなくニューギニア沖海戦なども同様)、あるいはサイパンで、あるいは沖縄で、あるいは広島、長崎、その他全国の大都市で、多くの日本人民間人が殺害されたということの背景には、李承晩というキチガイによる情報の捏造操作があったものと思っています。

悪は、ほっておけば、その被害は巨大な被害へと発展するのです。
このことは世界の「歴史の教訓」として、おおいに共有すべきものだと思います。

大爆発して沈没する大和



さて、話は前後しますが、実は、戦艦大和の有賀幸作艦長(中将)の甥が、ウエールズを沈めたマレー沖海戦のときの日本航空隊の隊長です。
つまり戦艦は航空兵力による爆撃攻撃に勝てない、ということを最もよく知る人物が、大和の艦長でもあったということは、ひとつ押さえておかなければならないポイントです。

その有賀艦長は、航空機の援護なく、沖縄までの片道の燃料しか積まない大和を出撃させています。
そして坊ノ岬沖合で、米軍航空隊386機による波状攻撃を受けて沈没しています。

なぜ、防空兵力、制空権を持たない戦艦は、敵航空機の前に歯がたたないという事実をよく知る人物が、大和の出撃を図ったのでしょうか。
なぜ大本営は、その作戦を実施したのでしょうか。
それは日本がバカだったからなのでしょうか。
大本営がキチガイだったからなのでしょうか。
戦争というものは、そんな軽々しいものなのでしょうか。

大本営は、日本の産んだエリート中のエリートが集うところです。決してアホではありません。
有賀艦長も、実に優秀な軍人です。
そして大切なことは、戦争は「政治目的を達成するための手段」である、ということです。

敗色濃厚となった大東亜戦争末期における日本軍の最大の目的は、なんとしても皇国日本の国体を護持することにありました。
そのためにどうするか。

どこまでも玉砕覚悟で戦いぬく。
本土決戦してでも戦い抜く。
そうなると、米軍側の被害も果てしなく大きなものとなる。
それでも戦争を続ける。
これもひとつです。

特攻も、玉砕も、まさに捨て身で軍人さんが死を賭して戦うことで、日本恐るべしという、これは戦争政治における最も効果的かつ政治的メッセージといえます。

大和は、そのために最後の出撃をした。
それもあるでしょう。
でも、それだけではないように思えるのです。

考えてみてください。
日本は、出撃わずか85機、実戦ではたった15機で、大英帝国の誇る完璧な対空防衛機能を持つ戦艦を沈めているのです。
これに対し、大和が出撃してくれば、米軍は数百機近い航空機で大和を叩きに来る。当然に想定される事柄です。

たった15機でも沈むのです。
それが数百機となれば、間違いなく沈むことでしょう。

その大和の艦長は、航空機は作戦行動中の戦艦を沈めることができるということを身を以て証明したパイロットの岳父です。
その事実は、米国側も把握していたことでしょう。
そして実際米軍は、386機というとてつもない兵力で大和を空爆しています。

そこで何が起こるか。
どのような事態が想定されるか。

実際、ニューギニア海戦などで、日本は抵抗できない輸送船を沈められ、海上に避難した兵士達を航空機によって大量に虐殺されています。
大和が沈むとき、そこで何が起こるか。
それは想定される事態です。

こうしたことを考え合わせるとき、ひとつの事柄が浮かび上がってくるのです。
それは、「正義とは何か」を厳しく問いかける、いわば「神の声」のようなものです。

マレー沖海戦で、英国王太子の名を冠した戦艦に対し、明確な武士道精神を示した日本は、
坊ノ岬沖海戦で、日本の国号「大和」の名を冠した戦艦を、沈め、乗員を虐殺される。

世界の民衆は、決して馬鹿ばかりではありません。
いつの日か、それは50年後かもしれないし、百年後、千年後かもしれないけれど、世界の人々が、ウエールズの沈没のときと、大和の沈没のときを較べ、人として本当に大切なことは何か、人道とは何か、勇気とは、愛とは、戦いとは何かについて、冷静に思いを馳せるようになったとき、世界の良心はそのときにこそ、皇国日本の栄誉と凄味に目を覚ます。

日本は、いったんは戦いに破れるかもしれないけれど、いつの日か、ふたたび皇国日本は蘇る。
私には、大和の出撃には、そんな未来へのメッセージが込められていたように思えるのです。

昭和20(1945)年8月15日、日本はポツタム宣言を受け入れ、連合国に降伏しました。
これを「無条件降伏」という人がいますが、それは違います。

ポツタム宣言の第13条には、次のように書かれているからです。
「第十三条、全日本軍の無条件降伏」

つまり、無条件降伏したのは、「日本軍」であり、国家としての「無条件降伏」は、日本はしていません。
だからこそ、日本は「国家としての戦費賠償」責任も負っていないし、していません。
つまり、皇国日本という国家は保たれたのです。

「さざれ石」というのは、長い年月の間に、小石がたくさん固まって、岩となったものです。
亡くなられた日本の将兵は、「さざれ石の巌となりて」大切な命をささげられました。

大東亜戦争における日本の軍人の死亡者 1,740,955人
民間人の死亡者 393,000人(うち広島原爆による者12万人)です。

忘れてはならないのは、亡くなられたひとりひとりの英霊が、ひとりひとりそれぞれ人生を持ち、生活や夢や希望を抱えた、心ある生きた人間であった、ということです。
そのひとりひとりが、命を捧げて戦い、護り抜いたのが、皇国日本です。

明治維新当時の日本の人口、3330万人。
大東亜戦争開戦当時の日本の人口、8390万人。
いま、日本の人口は1億2700万人です。

大和出撃に込められたメッセージ。
そのことを、いま私達は、もう一度、深く考えてみるべきときにきたといえるのではないでしょうか。